【いいよね、日常】病魔・因果関係の話
執筆 𝙆𝙐.𝙅𝙄.𝙍𝘼 (@p001_POOL) on Twitter
こんにちは。雨だったり晴れだったり繰り返されるから、人生の喜怒哀楽がダイジェスト版で流れていくような日々ですね。だからこそ晴れた日の喜びが濃縮されていてたまらないですが。
目次
生きる感覚
さて、私の友人たちは、概ねどこか死にたがりです。もしくは、死にたがりの友人を多数持つ太陽属性のギャルばかりです。かくいう私も恐らく死にたがりです。生きている感覚が全くない日がよく訪れるせいです。
私が卒論でも修論でも、気狂い宗教者にまつわる論文を提出したのも、そのせいです。私はもっとお洒落なフランスの写真論について学びたかったのに。くそ……。
てなわけで、備忘録として、どういうわけでそんな感覚なのか、少し整理したいと思います。親しい友人は結構知ってますね。今回は因果関係がうまく理解できない私の話です。
最初の記憶:何故か割れたインク瓶
小学生4年生の頃、母親と一緒に雑貨屋に行った日のことでした。下の方の棚から便箋を探し出そうとする母の背中は、綺麗に丸くなっていました。
ちなみに、セミクジラという鯨は、「背」中が「美」しいことからその名が来ているそうです。実際は結構ズングリした雰囲気で、背中以外にも特筆すべきことはあるんじゃないかと思います。
セミクジラになっている母親の上には、万年筆用のインクがズラリと並んだ棚がありました。こてっとしたガラスでできたインク瓶の中に、深海より深い藍が封じ込められた様子は、私にとっては宝石以上に鮮やかでした。
あまりに綺麗だったので、私はインク瓶をひとつ取って、試しにセミクジラの背中に乗せてみました。すると、なんとそのセミクジラは背中を地面と垂直に直し、母親になってしまいました。私に背中をポンと叩かれたと思ったのでしょうね。
そこから記憶があるのは、せっかくガラスに閉じ込められていた綺麗な深海が、床に漏れ出してしまっている景色と、割れたガラス片が雑貨屋の光を乱反射させていた様子だけです。
これが、因果関係が分からなくなってしまった思い出の中で、もっとも古いお話です。そこからは色んなことがありました。
朝焼けに消えゆくような綺麗な瓶が道端に落ちていたから、蹴ってみたら大きな音がして驚いた上に怒られてしまいました。
友人と談笑しながら持っていたカップを机に置こうと思えば、そこは机ではなく虚空で、気付いたら床にカップが落ちていました。
ダンボールの解体方法が分からない。物Aを置いてから、物Bを置こうとしたらすでに物Aがあった。濡れた物を服で拭ったら服が濡れてしまう。
小さい頃より減ってきたと思いますが、それでも今も私は、この連関のない世界に苦しんでいます。連関のなさに出会うたびに混乱し、悲しくなり、取り乱してしまいます。
手を離したら持っているものが落ちてしまう、ということが1番難しいです。かなり意識していないと、落ちてもしばらくは「なんでだ?」と見つめてしまいます。取り返しのつかない物をたくさん落としてきました。そのどれもが、潰れたインク瓶みたいになりました。
過不足なく理解できた世界
インク瓶が"何故か"割れてしまったより前に、目の前で起きている事象を過不足なく理解できた瞬間があったことをよく覚えています。
3歳のころ、母親と中華料理屋に行き、昼食をテイクアウトで購入した時のことです。家に帰って料理を広げていました。その中に、片栗粉を使った粘度の高い卵スープがありました。
私はその中華料理屋が大好きでした。食べられることに喜び、勢い余って、その中華スープを倒してしまいました。倒れた使い捨てのカップから、ゆっくりとスープが流れ出していました。
私は「あ、この液体はサラサラじゃないからゆっくり流れるんだな。」と、ただ呆然と眺めながら思っていました。
何故あのときにサッと理解できたかは分かりません。が、今でも私は、あの時の中華スープを追い求めています。理解のできる事象が目の前で起こったときに安心したいのです。分かりたいのです。
1人の世界なので
この症状(名前は知りませんが、これで死にたくなったりするから立派な病気だと思う)を、人に説明するのはめちゃめちゃ難しいです。
多分、自分以外のモノが持っている法則を理解するのが苦手なんだと思います。交際相手に「君は全てのものを包み込んだ世界を作る自閉症だ」と形容されるのもそのせいかなと思います。
基本的に生きているのが1人の世界の中だけなので、楽っちゃ楽です。でも自分が生み出したものだけでは生きられません。人の真似事で仕事をして、会話をしています。人間らしさとか、相応の年齢らしさとか、日常会話とか、全部頑張って覚えたことです。
新しいことを知るのは怖いですが好きです。私だけの世界じゃないんだ、ということを宣言してもらっている気がするからです。ただ、新しいものに出会っても、いずれ私は私の世界に取り込んで、「分かる」ものに変容させていきます。そうしないと分からないからね。
でもこれは、結構誰でも行なっている手続きなんじゃないかな。分かるものにしたいもの。
繰り返してほしいという祈り
私は繰り返す物が大好きです。一度見たことがあるから。そのことについては昔まとめています。
http://kujirrr.hatenablog.com/entry/2019/03/18/162642
この世界に連関を見つけることが困難だから、繰り返すことで初めて意味をなす「祈り」が好きなのだろうと思います。祈ることは、私にとっては「また同じように世界が動きますように」と期待する、大事な儀式です。
人はみな固有の生きづらさを抱えていると思います。それは、「死にたさ」のみに集約されるほど単純でもなく、「人それぞれだから」で片付けられるほど些末でもない問題です。
私は、少しでも生きづらさを和らげるために、毎日が勉強です。初めて扱うものに関しては、どうなるか本当にわからないので。
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